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お茶と歴史

日本各地のお茶文化の開花
~受け継がれる個性的なお茶~

●四国や富山の後発酵茶 ~カテキンと乳酸菌のハーモニー~

 日本で主流となっている煎茶とは趣の異なる、独自のお茶が今、脚光を浴びています。そのうち、徳島の阿波晩茶愛媛の石鎚黒茶高知の碁石茶富山の黒茶(バタバタ茶)などは、いずれも中国の普洱茶(プアール茶)と同じ分類で、黒茶あるいは後発酵茶と呼ばれる貴重なお茶です。
 各地の後発酵茶には、中国伝来、あるいは弘法大師や蓮如上人がもたらしたといった伝説が残っています。不老長寿の仙人の秘伝との言われや、お茶の神様を祭る地区もあり、その長い歴史を物語っています。

 後発酵茶の製造には乳酸菌など微生物の力で発酵させる工程があるのが特徴です。苦渋味が少なく、ほのかな酸味のあるさっぱりした味わい。茶葉がもともと持つ成分と乳酸菌等が一体となった後発酵茶はおなかにやさしく、地元では健康長寿につながると言われてきました。これを裏付けるような、後発酵茶を飲み続けると、体内のコレステロール、中性脂肪や免疫力に良い変化が現れるという研究結果もあり、その人気も高まっています。

○阿波晩茶

上勝町で作られる阿波晩茶

 徳島県の山間、勝浦郡上勝町で受け継がれる阿波晩茶は、一番茶の芽を夏まで十分に成長させて使います。「番茶」ではなく「晩茶」と表記するのも、「遅く摘んだお茶」という意味からなのです。
 茶畑の多くは急しゅんな斜面にあります。7月の土用の頃に新芽を手摘みし、釜で茹で、発酵しやすくするために葉をこすり合わせる「茶摺り」の後、木桶に漬け込んで乳酸発酵させます。2週間~1月ほどしたら天日に干して乾燥させ、夏の終わりに新茶が出来上がります。阿波晩茶がつくられる夏の間、山あいの里には独特の香りが広がることから、環境省の「かおり風景百選」にも選ばれました。
 茶葉はとても軽く、畑にあったころの葉の形を想像しやすい形状です。ここから滲み出る山吹色のお茶は、老若男女、季節を問わずに親しまれています。授乳後に哺乳瓶から晩茶を飲ませ、赤ちゃんの口をすすぐのも、この土地ならではの習慣です。

○バタバタ茶

富山県朝日町のバタバタ茶

 富山県の山形との県境にある下新川郡朝日町は北アルプスと日本海に挟まれた風光明媚なところ。ここには、黒茶が「バタバタ茶」という振茶の喫茶法とともに伝わっています。
 煮出したお茶を茶碗にとり、塩を加え、二本の竹をつないだ茶せんで泡立てていただきます。この茶筅は夫婦茶筅とも呼ばれ、二本の茶筅の柄の部分が留められています。この茶せんをせわしなく動かす様を「バタバタ」と言い、そこからバタバタ茶と呼ばれるようになったそうです。
 かつては囲炉裏にかけた茶釜に黒茶を煮出しておき、家族や近所の人がそれを囲んでは、お茶を飲んだり、漬物を食べたり、おしゃべりしたものだよ、と年配の女性たちは懐かしみます。各自好きなだけお茶をおかわりし、茶せんの柄を茶碗の縁にチャカチャカ当てながら点てるので、さぞかし楽しくにぎやかな団らんだったことでしょう。

独特のお茶の味わいも、山あいの農村の風景も、一緒に受け継いでいきたいわね!

キシマメ入り土佐番茶 ~大名による茶の奨励とお茶好きな領民~

岸豆入り土佐番茶

 江戸時代、各地の大名は、藩の活性化のために産業振興を図ります。お茶もその一つで、既にお茶が栽培されていた近畿、九州の一部、静岡、埼玉以外にも、沖縄から東北までの諸藩でお茶の栽培に乗り出しました。
 土佐藩もその一つです。藩主の山内一豊は、自生していたお茶を大阪に売ってお金を得るという、お茶の特産品化を早くも行っていました。これが、現在も良質なお茶で知られる土佐茶(高知県のお茶)のルーツとも言えるでしょう。
 良質な煎茶のつくられる高知ですが、地元では、岸豆の入った番茶が愛飲されています。岸豆、カワラケツメイなどと呼ばれるマメ科の植物をお茶にして飲むのは「弘法茶」とも呼ばれ、高知以外にもある飲み方ですが、高知には、ある昔話が伝わっています。

 江戸時代の土佐のこと。

 山内の殿様は領内で良いお茶ができることを知り、
 それを大阪で売ってみました。
 すると、高値であっという間に売り切れたので、
 領内の農民に、お茶の栽培を奨励しました。

 合わせて、
 「町民や農民はお茶を飲んではならぬ」との御触れを出しました。
 しかし農民だってお茶が飲みたくて仕方ありません。
 「茶葉を揉まなければ、お茶とは言わないだろう。」と、
 揉まないで作ったお茶を飲むようになりました。
 しかし、山内の殿様は「それもならん」と禁止します。

 困った農民たちは、
 それならばと川岸に自生していた「岸豆」をお茶に混ぜて飲みました。
 殿様は、
 「皆がそこまでお茶を好きだとは知らなかった。許せ」

 それ以降、揉まず、岸豆を混ぜたお茶に農民や町民が親しみ、
 それが「土佐番茶」と呼ばれるようになりました。

 岸豆の入った土佐番茶は、黄金色の水色と自然の甘さが楽しめるお茶です。土瓶やポットに茶葉とお湯を入れっぱなしにしておいても苦くならず、温かくも、冷たくも味わえます。高知県内では学校給食に出されるところもあり、大人は焼酎を割るのにも使うなど、人々に親しまれています。

秋や冬のお茶もおいしい土佐番茶は、こんな逸話が生まれるほど地元で愛されてきたのね!

●沖縄ぶくぶく茶 ~戦争から復活した、琉球王朝ゆかりのお茶文化~

ぶくぶく茶

 琉球王国は、15世紀から19世紀にかけ、中国と日本の間で繁栄した海洋国。この時代、中国王朝からの使節団のおもてなしに際して供していたのがぶくぶく茶です。
 ぶくぶく茶は、王族以外でも祝いの席などにふるまわれていました。昭和に入ってからも、出産祝い、誕生日のお祝い、船出などのお祝いごとにはぶくぶく茶がつきものだったようです。ぶくぶく茶を売り歩く人や仕出しもあり、特に那覇の女性にとても親しまれたお茶でした。
 ぶくぶく茶を初めて見た人が驚くのは、器にこんもりと盛り上がった白い泡。これは、煎り米を硬水で煮出した液番茶さんぴん茶(ジャスミン茶)を混ぜ、硬い茶せんで泡立てたものです。泡の上には砕いたピーナッツが振り掛けられ、泡の下には、番茶とさんぴん茶などのお茶、一口ぐらいのお赤飯が入っています。これを、飲むよりは「食べる」感覚でいただきます。
 煎り米を煮出す水の硬度、お茶と混ぜる割合が悪いと、きめの細かい泡になりません。泡立てる時の大きな木鉢や硬い茶せんなども必要で、受け継がれた経験が作り上げたお茶です。
 ところが、第二次世界大戦の戦場となった沖縄では、ぶくぶく茶にも大きな損失を受けました。道具類が焼失し、技術伝承が難しくなり、その風習はやがて薄れていきます。
 戦後、今にも途切れそうな伝統でしたが、研究者が昭和30~50年代に残った道具を探し出し、材料や点て方などを調べました。1990年以降、保存会や茶道の会が設立され、復活が静かに進んでいきます。
 現在、沖縄には、ぶくぶく茶やアレンジしたメニューを揃える飲食店、体験施設があるほか、材料の販売も行われています。沖縄独自の茶道を学んだり、観光で楽しんだりする人が増えています。

芳ばしい煎り米、さわやかなさんぴん茶、赤飯にピーナッツが混ざり、見た目だけでなく味わいもとっても個性的ね!