お茶にまつわる静岡の伝説・物語
お茶と長い歴史を歩いてきた地域には、いつしか伝説が語り継がれ、土地の香りを映した物語が育ちました。静岡のお茶にまつわるお話から、昔の人の暮らしや思いを感じ取ってみませんか。
●行基としゃくしばばあの伝説
静岡市の山あいのお茶どころに伝わる伝説です。
今から1200年ぐらい前の奈良時代のことです。
僧・行基(ぎょうき)は、寺院を建てて布教するとともに、橋やため池などの今でいうインフラの整備、救護所等での慈善活動を進め、民衆の生活向上に尽力しました。
後に、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅命により、
奈良の東大寺建立の責任者として活躍します。
その聖武天皇が皇太子だったとき、重い病気になってしまいました。
病気平癒を占う陰陽師の見立ては
「都の東方に千年を超える楠(くすのき)の老木がある。そこから仏像を彫り出し、祈れば、病は治るだろう」
というものでした。
その命を受け、行基が東へ向かいます。
そして、駿河の美和村、葦が繁る窪地近くの法明寺に、異彩を放つ楠の大木をみつけ、それから、七体の観音像を必死に掘り出していきます。
夢中で掘り続ける行基のもとに「しゃくしばばあ」と呼ばれる老人があらわれ、飲み物を勧めます。行基がそれを飲むと疲れが消え、いっそう、彫刻に励むことができました。
行基は、彫り終えた七体の観音像のうち一体を、楠が生えていた法明寺に、他の六体も駿河の各地に奉納し、都にいる皇太子の平癒を祈願したところ、やがて回復されました。
その、しゃくしばばあが差し出した飲み物こそ、お茶だったそうです。
葦が繁る窪地は、今の「足久保」であり、静岡茶のふるさとです。
この伝説を受け継ぐ法明寺の境内にはしゃくしばばあの石碑が佇み、参道の脇にはお茶畑が広がります。
また、この行基伝説の「安倍七観音」は、静岡市内に現存する七箇寺に祀られ、今も駿河の人々を見守っています。
●時代を越えて生きるティー・ロード
鎌倉時代、中国に留学した僧の一人に、円爾(えんに)がいます。
円爾は中国に渡って修行を積み、経典などとともにお茶や製粉技術などを持ち帰りました。人々の生活や国の発展に活躍し、没後、花園天皇から聖一国師(しょういちこくし)の号を賜りました。
静岡市の山あいにある栃沢(とちざわ)と、足久保(あしくぼ)は、
ともに聖一国師とお茶にゆかりの地です。
栃沢には聖一国師の生家があります。この二つの集落をつないでいたのが、約10kmの古道。この道は、お茶に縁が深い二つの地区をつなぐことから「ティー・ロード」と呼ばれています。
ティー・ロードは突先山登山道にもあたり、
滝や沢、丸木橋、山肌からしみ出した水のぬかるみ、馬の背のような稜線、
急傾斜もあり、健脚でなければ通れないような険しい道です。
しかし、車が主流になり、山を迂回する道路が整備されるまでは、けもの道のようなこの道が、ここのメインストリートでした。
隣り合う栃沢と足久保には縁組も多かったそうです。
途中、炭焼き小屋の跡、灌がいを整備して村の水不足を救った助兵衛(すけべえ)の碑、
歯痛を治してくれる地蔵、手入れされた針葉樹林などに、昔の暮らしを垣間見ることができます。
聖一国師もこの道を通って修行に出て、あるいは帰郷していたのかもしれません。
現在も、両集落からティー・ロードにつながるエリアには茶畑が連なります。
生まれ育った栃沢、中国から持ち帰ったお茶の種を植えた足久保には
それぞれ石碑が立ち、聖一国師の功績を静かに称えています。
今でもティー・ロードは、地元の人たちが手を入れて大切にし、
ウォーキングイベントなどを開催して、国師の功績と村の暮らしを伝えています。
●松尾芭蕉が見たお茶どころ
松尾芭蕉は日本各地を行脚し、各地の風景を句に残しています。静岡にも、当時の茶畑、茶の生産を伝える芭蕉の句が伝えられています。
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」島田市金谷町・金谷坂石畳峠
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
(うまにねて ざんむつきとおし ちゃのけぶり)
1684年(貞享元年)、芭蕉が41歳の時の句です。
句碑の説明板には、
「早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く、
残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。
有明の月は遠く山の端にかかり、
日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている」とあります。
この句は、中国の詩人・杜牧の詩を、馬上で夢見心地に思い描いていたところ、小夜の中山(さよのなかやま)まで来たところで目が覚め、うたったとあります。小夜の中山は、急坂で滑りやすく、東海道の一つの難所です。
付近には、歩きやすくするために石畳を整備したところもあります。
江戸時代の終わりごろから牧之原が大規模に開拓され、一面茶畑が広がりました。
芭蕉が通った頃は今ほどではないでもののお茶が栽培され、地元の人々が飲んでいたようですね。
「駿河路や花橘も茶の匂い」
するがちやはなたち花も茶のにほひ
1694年(元禄7年)、芭蕉51歳の句です。
この年の旧暦5月、江戸から京へ東海道を西に向かいます。
その折、「越すに越されぬ大井川」とうたわれた
大井川の増水による川留めにあい、島田宿に四泊も足止めされました。
そのときに読んだのがこの俳句です。
駿河路はさすがに茶どころ。
香り高い橘の花でさえ、お茶の匂いにかなわない。
という内容からは、当時、既に駿河寺が茶どころだと良く知られており、また、お茶の製造においてもその独特の香りが辺りに広まっていたのだということがわかります。
なお、「茶の香り」は「新茶の香り」と解釈されることが多いのですが、旧暦の5月は新茶の時期は過ぎているので、当時農家が自家用に製造する番茶の香りではないかとする説もあります。