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お茶と歴史

100年前のお茶活況 ~静岡をお茶のまちにした産業革命~

 江戸時代末期の1856(安政3)年、長崎の貿易商・大浦慶は、イギリス商人からの注文を受け、嬉野など九州各地のお茶を一斤(推定6t)輸出します。これが、近代日本のお茶輸出の始まりです。それを後追いするように、江戸幕府は日米通商修好条約を提携し、函館、横浜、長崎に国際貿易港を開きます。横浜港が開かれた1859(安政6)年には早速180tが輸出され、お茶は、生糸に次ぐ明治時代日本の重要輸出産品となりました。この動きは、静岡ゆかりの人々を動かし、産業とまちを大きく変貌させました。

●お茶の輸出がまちの姿を変えた

 静岡県内ではそれまでの川根、本山など山間の産地に加え、牧之原、富士などにも茶園が拓かれ、生産量を飛躍的に伸ばしていました。このお茶の多くが輸出に向けられるのですが、お茶の輸出が始まった頃は、横浜での再製(仕上げ)加工を含め、外国商社にそのほとんどが委ねられていました。産地の立場は弱く、利益も薄いものでした。また、混ぜ物がされた粗悪なお茶が輸出され、評判を落とすこともありました。

海野孝三郎頌功碑(静岡市清水区)
清水港からのお茶直輸出に尽力した
海野孝三郎氏の功績をたたえる碑が
清水港に建っている。

 そこで静岡の人々は、産地の静岡から良い品質のお茶を直接輸出しよう、それを地域の発展にもつなげようと、改革に粘り強く取り組みます。やがて、1899(明治32)年、静岡に程近い清水港が貿易港に指定されます。静岡市の茶町周辺には直輸出を見越して商社や再製茶工場が集積し、産地で良いお茶を大量に用意できるようになりました。清水港利用を船会社に働きかけ、1906(明治39)年、念願の直輸出が実現します。実際に直輸出船が清水港に現れた時は、辺りはお祭り騒ぎのように盛り上がったと伝えられています。
 茶町周辺の製茶問屋街から清水港へのお茶の輸送量が増えると、牛や馬がひく荷車では追いつかなくなりました。それが鉄道の整備を促し、今度は茶問屋街と清水港をつなぐ軽便鉄道が開通します。そして1910(明治43)年、清水港のお茶輸出量は横浜を上回って日本一になりました。
 これが、およそ100年前の出来事です。お茶をきっかけに都市基盤を整備し、お茶の集散地・静岡、輸出港・清水が共に栄えました。100年前の線路の一部は現在も市民の足に使われ、また、当時茶箱を積んでいた木製の貨物車両「デワ1号」も鉄道会社に大切に保存されています。

お茶の輸出量の変化

(データ:『新茶業全書 増補改訂版』静岡県茶業会議所編 より作成)


日本平から眺める現在の清水港(静岡清水区)
画像の左(静岡方面)から中央(港)向かって右へ軽便鉄道が通る

緑茶も紅茶も手掛けるお茶の産地に

 明治時代、欧米向けの輸出は、日本にお茶の経済的価値に気付きます。明治政府は、国をあげて茶業を奨励します。その一つに、アメリカ向けの緑茶に加え、ヨーロッパ向けに紅茶も作って輸出しようという取り組みがありました。
 多田元吉(ただもときち)は、江戸から明治への移行に伴い、旧幕臣として徳川慶喜とともに静岡へ移ります。そして、静岡市西部の丸子(まりこ)で茶園を開拓し、茶に携わるようになります。明治政府は、紅茶産地の調査のため、1975(明治8)年から1977(明治10)年にかけて多田ら3名の専門家を清やインドに派遣します。ダージリン、アッサム、広東、福建、浙江省などの産地に赴いてはチャの木の種類や栽培方法、製造方法や機械を調べ、茶の種子や見本茶を携えて帰国しました。
 持ち帰った種は、丸子など数か所の茶産地に捲かれ、紅茶向きの品種として育てられました。多田の指導のもとに紅茶向けの栽培や製造技術が高まり、日本は、海外でも評判の良い紅茶を生産・輸出できるようになりました。その後、国際情勢によって紅茶の輸出や生産量は変動しますが、今再び、日本産の紅茶には注目が集まり、生産者もファンも増えています。

左:多田元吉翁顕彰碑(静岡市駿河区丸子)
日本紅茶の草分け父周りには「ただにしき」などインド由来で紅茶に適した品種が植えられ、地元の茶業者による紅茶づくりも続いている。
右:日本紅茶原木(静岡市駿河区丸子)
インドから持ち帰った茶の種が成長し、こんもりと茂っている。

●優良品種「やぶきた」の誕生

やぶきた原木(静岡市駿河区)

 多田元吉がインドで調査を行った頃は、国内で茶園面積や生産量がぐんぐんと伸びているとき。しかし、当時はまだ、茶の栽培や製造は近代化されておらず、良質なお茶の増産には苦労が絶えませんでした。
 江戸末期に静岡市で生まれた杉山彦三郎は、家業の造り酒屋と茶栽培に従事していました。茶園を広げ、栽培や製茶技術を学ぶに従い、良い木から良いお茶を作ることを目指すようになります。当時チャの木は自然繁殖が良いとされ、品種改良など誰も考えていませんでした。しかし杉山は、チャの木にはそれぞれ特徴があり、お茶のでき具合も異なることに気がつきます。全国の茶産地を巡ってチャの木の種類を調べ、また自宅近くの試験地でそれらを育てました。気候による育ち具合、芽の伸びる時期、芽の色や柔らかさ、収量、製茶した後の味や香りの違いなどを地道に調査し、1908(明治41)年、51歳の時に「やぶきた」「やぶみなみ」「こやにし」などの優良品種を選抜しました。

 やぶきたの特徴は、栽培しやすく、製茶しやすく、人々に好まれる風味だということ。こうした良さが広く知られるようになったのは戦後になってからですが、現在日本で生産されるお茶の70%以上を占めるほど、日本各地に定着しました。近代茶業の黎明期に、独自の視点で研究を続け、茶業に新時代を築きました。

海外のお茶人気が、
100年前の静岡を大きく変革したのね 。