静岡にお茶を伝えた三国師 ~お茶のまちの開祖~
●三人の国師
今からおよそ1200年前の平安時代に遣唐使とともに中国へ渡った僧侶、800年ほど前の鎌倉時代に南宋で学んだ留学僧たちは、それぞれの留学先で学んだ仏教とともに、茶の種や製茶・喫茶方法を持ち帰りました。他の種の招来、次第に洗練される製茶技術や喫茶方法は、日本にお茶が広まり、発展する基礎となりました。
静岡では、今日のお茶どころ・静岡の起こりは鎌倉時代の三人の高僧にあるとして、特別な気持ちを込めて感謝しています。その三人とは、禅宗(臨済宗)の開祖である栄西禅師(千光国師)、京都・東福寺開山の円爾(聖一国師)、福岡・承天寺開山の南浦紹明(円通大応国師)。それぞれ、歴代の天皇、上皇等から国師*の諡号(しごう)をおくられていることから「三国師」と呼んでいます。
栄西禅師と聖一国師は61歳差、栄西禅師と南浦紹明は94歳の開きがある3名が、鎌倉時代にもたらした功績をたどりましょう。
*国師は、天皇や上皇など朝廷が、「国の師」と認める高僧におくる称号です。亡くなった後に、その功績を評価して授けられ、また、聖一国師のように、現在までに複数回国師号をおくられた例もあります。
■三国師の略歴
年代 | 千光国師(栄西) | 聖一国師(円爾) | 円通大応国師(南浦紹明) |
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1140年 1150年 |
1141年 岡山に生誕 吉備安養寺、比叡山延暦寺等に学ぶ 1168年 渡宗 1187-91年 二度目の渡宗 |
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1200年 | 1202年 京都建仁寺開山 この頃明恵上人と会う 1211年 『喫茶養生記』成立 1215年 入寂 |
1202 静岡(栃沢)に生誕 駿河・久能寺、三井園城寺、上野長楽寺、鎌倉・寿福寺などに学ぶ 1235-1241年 渡宗 1241年 承天寺開基 1243年 京都東福寺開山 この頃静岡で茶の種を蒔く |
1235年 静岡(井宮)に生誕 駿河・建穂時、鎌倉・建長寺に学ぶ |
1250年 | 1254年 鎌倉寿福寺住持 1255年 東福寺完成し住す 1258年 建仁寺境内を再興 1280年 入寂 |
1259-67年 渡宗 1270年 筑前・興徳寺住持 1272年 大宰府崇福寺住持 |
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1300年 | 1304年 京都万寿寺入山 1307年 鎌倉建長寺住持 1308年 入寂 |
●茶祖 千光国師(栄西禅師)
明庵栄西(みんなんえいさい、永治元(1141)年~建保3(1215)年)は、平安末期から鎌倉時代の僧です。亡くなった後、千光国師の諡号がおくられましたが、今は栄西禅師と呼ばれています。
岡山に生まれ、比叡山延暦寺などで天台・密教を学びました。28歳の時(1168年)と47歳の時(1187~1191年)の2度、中国(南宋)に留学し、禅宗(臨済宗黄龍派)の教えを正式に受け継いで帰国します。帰国後しばらくは新しい教えに対する迫害を受けましたが、鎌倉幕府の庇護も受けながら、日本仏教の興隆に力を注ぎます。日本初の禅寺となる博多・聖福寺の建立(建久6(1195)年)、鎌倉・寿福寺住職への招聘(正治2(1200)年)、京都・建仁寺の開山に迎えられ(建仁2(1202)年)、東大寺勧進職も務め、建保3(1215)年に亡くなります。
禅宗のために苦難を乗り越えてきた栄西は、茶も日本に進めました。栄西が留学していたころ、南宋では茶の普及が進んでいたこと、また、寺院一帯は今の茶の産地と重なります。このことから、留学中に茶にふれ、その喫茶法や効能を知り得たようです。そうした体験も踏まえ『喫茶養生記』をまとめました。71歳、承元5年(1211年)のことです。
鎌倉時代の記録書『吾妻鏡』の建保2年2月(1214年)の条には、将軍源実朝が二日酔いの際、栄西禅師からお茶と『喫茶養生記』を献上され、茶を服したところ、たちまち症状が治まった、と伝えられています。喫茶養生記は、茶と桑の薬効などを著した上下2巻の本で、日本初の茶の専門書です。冒頭に「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と茶が健康長寿に良いことを説き、茶の効能、南宋時代の栽培・製造方法、喫茶方法を著しています。
また、中国から戻る際に茶の種を持ち帰り、肥前(佐賀県)背振山霊仙寺、博多・聖徳寺、筑後・千光寺に植えたという伝承があります。また、親交のあった明恵上人に茶の実を贈り、明恵上人が京都・栂尾高山寺に植えました。また、明恵上人は、育てた茶を宇治(京都)、任和寺、醍醐、葉室、般若寺、神尾、大和(奈良)、伊賀の八島と伊勢の河尾(三重)、駿河の清見(静岡)、武蔵(埼玉)、九州にも植え、茶を広めたと伝えられます。
栄西は、奈良時代に伝わったものの、普及していなかった茶に再びスポットライトを当て、各地に広めるきっかけをつくりました。静岡とは直接のかかわりはなかったようですが、「日本茶祖」「日本茶中興の祖」として、日本各地で敬われています。
●静岡茶の始祖 聖一国師(円爾)
円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日)~弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代の僧です。3回国師号をおくられていますが、最初の聖一国師の諡号がよく知られ、親しみを込めて呼ばれています。
栄西が建仁寺を建立したのと同じ年、聖一国師が駿河国安倍郡栃沢(とちざわ・現在の静岡市)に生まれました。幼名は龍千丸ですが、子どもの頃、地元では「栃小僧」と呼ばれていたそうです。
幼いころから聡明で、5歳で修業を始め、駿河の久能寺の尭弁(ぎょうべん)、三井園城寺(滋賀の三井寺)、奈良東大寺、上野国長楽寺の栄朝、鎌倉寿福寺などに学びました。33の時に宋に渡り、名山霊地を遍歴しました。遂に、杭州・径山萬寿寺(きんざんまんじゅじ)にて無準師範(ブシュンシバン)の門下となり、修行を積みます。径山万寿寺は、当時の五山の一に数えられる名山でしたが、聖一国師の傑出した能力もあり、無準禅師から正式に法を受け継ぐこととなり、経典や数々の貴重な品とともに1241年に帰国しました。その後、福岡、京都、鎌倉などで仏教の普及につとめます。
その際持ち帰ったのは、経典はもちろん、儒書、医薬書を始め、当時の先進的な科学技術。この中に、製粉(うどん、そば)、饅頭、織物、陶器(陶器人形)、茶に関するものも含まれており、うどん・そばや饅頭の伝来、博多織や博多人形のルーツ、各地の茶の始祖と崇められるようになりました。また、帰国後の博多滞在中に疫病が流行った際、町民が担ぐ施餓鬼棚に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したことが、博多祇園山笠の起こりという説もあります。
静岡のお茶とのかかわりについては、『東福寺誌』に「国師の駿河穴窪の茶植え…」との記述があります。「駿河穴窪」は静岡市足久保であり、国師の生誕地・栃沢とは、山を挟んで隣り合う村です。ここに中国から持ち帰った茶の種を蒔き、あるいは中国式の製法を伝えたのでしょうか。これが静岡茶の起こりであったか、後に足久保は御用茶を納めるほど良質な茶を作り、今日も上品な高級煎茶を生産しています。
国の師として1311年に花園天皇から聖一国師の諡号がおくられました。そして、安永9年(1780年)に後桃圓天皇より「大寶鑑廣照国師」、昭和5年(1930年)に昭和天皇より「神光国師」の諡号がおくられています。地元静岡市では、聖一国師の誕生日(新暦の11月1日)を「静岡市お茶の日」に定め、聖一国師に感謝したり、お茶に親しんだりしています。
●草庵式茶道の祖 大応国師(南浦紹明)
南浦紹明(なんぽしょうみょう・嘉禎元年(1235年)~延慶元年(1308年))は鎌倉時代の僧。円通大応国師の諡号がおくられています。
南浦紹明は、聖一国師が宗へ留学した年に、聖一国師と同じ駿河国の安倍郡(現在の静岡市)に生まれました。静岡市の中心部に近いところには、南浦紹明が生まれた際、産湯の水を汲んだという井戸が残されています。そして、幼くして安倍郡にある建穂寺の浄弁法師について天台学を学びました。ここまでが、ふるさと駿河での足跡です。
その後、15歳で鎌倉・建長寺開山の蘭渓道隆(らんけい どうりゅう・大覚禅師)のもとで禅を学びます。建長寺は、建立の際に、北条時頼の懇請により聖一国師が地鎮祭を行いました。また、蘭渓道隆が若いころ、聖一国師が杭州径山で法を嗣いだ無準師範(ぶじゅんしばん)に学んだことがありました。南浦紹明と聖一国師には、こんな間接的なつながりもあります。
蘭渓道隆は渡来僧で、建長寺も中国風の様式で建てられおり、南浦紹明は寺内で中国語も学んだと思われます。そして、25歳で南宋に渡り、虚堂智愚(きどうちぐ)のもとで修業に励みました。帰国後は、筑前興徳寺や博多崇福寺など現在の福岡で、学徒の指導に心を傾けました。
南浦紹明の留学先は、他の国師と同じく茶産地の杭州で、径山萬寿寺にいた時期もありました。滞在中に、茶を身近に感じていたことでしょう。宋から帰る際には、径山から茶台子(茶の湯で用いる棚)、風炉、釜等の茶道具一式、茶に関する書物7部も携えてきました。これらは、帰国後、住持を務めた筑前崇福寺に納め、後に、南浦紹明の弟子が開山となった京都大徳寺に贈られました。また、これらの道具を用いた中国風の茶礼、闘茶の風習も日本に伝えたとされています。(『本朝高僧伝』)
こうしたことから、南浦紹明は、日本の草庵式茶道の創立者と呼ばれています。
聖一国師や南浦紹明ら、多くの日本の仏僧が学んだ杭州・径山萬寿寺は、日本の茶道の源流に当たるとして、今でも日本から訪れる茶道・茶文化関係者が絶えません。