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お茶と歴史

徳川家と縁の深いお茶の国

●家康も愛した静岡のお茶

 戦国から江戸時代時代に活躍した徳川家康公は、その幼少期や晩年を駿河(するが・現在の静岡県中部から東部にかかる地域)で過ごしています。
 1607年、大御所となられて駿府城(現在の静岡市)に入城した家康公は、駿河でつくられる安倍茶(あべちゃ・現在の静岡本山茶・しずおかほんやまちゃ)を楽しみました。

 そのおいしさを満喫するため、標高1000mを超える静岡市北部の井川大日峠に、お茶を保管するための蔵を建てさせました。名器と称えられるいくつもの茶壷に詰められた御用茶は、夏の間、冷涼な高地で大切に保管されました。そして秋になるとお茶を駿府城に運ばせ、熟成したお茶の深い味わいを楽しんだと言われています。

 当時、お茶蔵や道中にあたる集落には、大事な御用茶のため、その保管、運搬にあたる特別な役人もおりました。
 現在、井川にはお茶蔵が復元されています。また、この故事にならい、井川から家康公へお茶を届ける「駿府お茶壷道中行列」が地元の方たちによって行われたり、新茶を涼しいところに保管し、秋にまろやかな味わいを楽しむ「熟成茶」が親しまれたりしています。

復元されたお茶蔵(静岡市葵区井川)と駿府お茶壷道中行列

幕臣が拓いた牧之原台地

 静岡県中部に広がる台地「牧之原(まきのはら)」は、深蒸し茶の産地として知られています。ここでお茶が栽培されるようになったきっかけは、「大政奉還」にさかのぼります。
 第15代将軍 徳川慶喜は、江戸無血開城の後、水戸、そして駿府(現在の静岡市)へとその身を移されました。慶喜を、駿府まで警護したのが300名にのぼる幕臣の精鋭たち(後に「新番組」)。しかし、静岡に着いた後、彼らは幕臣の身分も家禄も失い、失業してしまいます。

中條景昭(ちゅうじょうかげあき)像
(静岡県牧之原市)

 新番組の隊長だった中條景昭(ちゅうじょうかげあき)は、組員の新たな生活の道を探すために奔走します。そして、勝海舟らのアドバイスを受け、1869(明治2)年の夏、約250戸の元幕臣とともに、牧之原台地の開拓に着手しました。
 武家として過ごしてきた幕臣とその家族には、予想もしなかった大転身。さらに、牧之原は広大で、当時「不毛の地」と呼ばれた原野でした。農業の経験もなく、資金も乏しい彼らにとって、耐え難い日々が続いたことは容易に想像できます。苦労を重ね、初めて少量のお茶を摘めたのは明治6年のことでした。
 牧之原には大井川の川越人足たちも入植し、明治政府のお茶輸出政策、気象や交通条件などがあいまって、今日の一大茶産地へと発展してきました。現在、この丘陵地で育てられた茶葉は、主に深蒸し茶に加工され、親しまれています。

現在の牧之原大茶園