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お茶と歴史

世界を駆け巡るお茶
~歴史に刻まれたお茶の事件簿~

●ボストン・ティーパーティー ~アメリカ独立の序章

 お茶にかかわる歴史的出来事の中でも、特に有名なのが、ボストン・ティーパーティーでしょう。

 17世紀から18世紀にかけて、北アメリカ大陸はヨーロッパ諸国による開拓が盛んに行われました。17世紀中ごろには、オランダの植民地だったニューアムステルダム(今のニューヨーク)でお茶の販売が始まります。この頃のお茶は貴重で高価、移民にはなかなか手が出ないものでした。18世紀には移民の生活も次第に向上し、お茶はより広く浸透しました。密輸も含めてお茶の輸入量が増え、価格が低下したことも背景にあります。
 当時アメリカには、オランダ、イギリス、フランスなどから入植していました。領土を広げたい各国間の争いに、イギリスは本国から軍を投入して勝利し、1763年のパリ条約で東海岸の広大な土地を手中にします。
 イギリスは、この戦争にかかった経費を植民地の税金を増やすことで賄おうと考えました。印紙税、紙、茶などの関税を新たに設けるのですが、こうした動きは、植民地で本国イギリスの高圧的な支配への反感を高めていきます。イギリスからの輸入品の不買運動などで対抗し、1770年には茶の関税以外の新税が廃止されるまでになります。
 同じ頃、イギリス東インド会社は茶貿易の独占権を持っていながら、横行する密輸に売り上げを奪われ、財政状態を悪化させていました。これを救うためイギリスは、東インド会社にアメリカへの新たな茶の輸出を認めます。このニュースは、アメリカの、イギリスへの嫌悪感を増幅してしまいます。
 そのような状況の中、1773年11月から12月にかけ、茶を積んだ3隻の船が、ボストン港に到着しました。これを受け入れれば、屈辱的な関税とイギリスの支配を容認することになるため、ボストンの人々は、船に茶を積んだままイギリスへ帰し、税金を払わないことを決めます。しかし、その要求は受け入れられませんでした。12月16日、業を煮やした一部の市民はアメリカ先住民に扮して船に乗り込み、約40tものお茶を海へ投げてしまいました。
 これを知ったイギリスは、ボストン港を封鎖するなどの対抗措置を取ります。アメリカの不満はますます強まり、1774年に植民地代表による第一次大陸会議を開催し、イギリスからの全面的な輸入禁止を決定します。対立の火花は、1775年の独立戦争へ発展。1776年7月4日の独立宣言文の発表、1783年にはイギリスによる承認を受け、アメリカは、正式に独立を達成しました。
 憎いイギリスの象徴として独立戦争のきっかけとなったお茶ですが、独立後のアメリカの食卓にお茶は再び並び、イギリスを経由しない独自の輸入も行われました。

イギリスのお茶好きが呼んだアヘン戦争

 お茶を背景に、国際情勢に大きな影響を与えた戦争が、もう一つあります。
 17世紀、イギリス貴族に流行したお茶は、次第に独自の喫茶習慣となり、幅広い国民に親しまれるようになっていました。イギリスの茶の輸入量を史料から拾うと、イギリス東インド会社が中国から直輸入を始めた1689年に約11t、ボストン・ティーパーティーの少し前(1760年)には約2800t、アヘン戦争の6年前(1834年)には約14,500tまで膨らんでいます。
 18世紀から19世紀前半、茶のほとんどは中国から輸入され、支払いには銀があてられていました。イギリスでお茶の人気が高まると、中国からお茶の輸入が増大し、中国へ渡す銀も増えます。イギリスと中国の間には大幅な貿易不均衡が生じ、銀は一方的に中国へ流れ込むようになりました。
 これを是正するため、イギリスは、当時開拓していたインドから、中国へアヘンを売ることにします。当時の中国では、アヘンは薬として扱われていました。その一方で、媚薬の虜になった常習者が増え、それを助長する密輸、アヘン屈なども増加していました。イギリス政府はこの動きにのり、茶によって中国に流出した銀を、アヘンによって取り戻すことに成功します。
 今後は、中国・清王朝が、国内のアヘンの蔓延による銀の流出、国力低下に直面します。これを憂いた中国は1839年、アヘンの輸入禁止、密貿易の取り締まりに乗り出します。密輸に係わるヨーロッパ船には、アヘンを没収する代わりに茶を支給しました。しかし、納得のいかないイギリスは、強硬な中国と小さなもめごとを繰り返し、やがて武力に訴えます。
 このアヘン戦争にイギリスは勝利し、1842年の南京条約で中国から香港を奪い、中国における自国の権利を一層伸張します。中国国内の混乱は、お茶の生産にも影響を与えます。実は同じ時期、イギリスはインド植民地でのお茶の生産を模索しており、それから半世紀後には、インドからの輸入量が中国を上回るようになるのでした。

●交易と経済発展に貢献したお茶

 お茶は、国の将来を大きく変える戦争の引き金になりましたが、お茶の広まりは人々の健康、国力や技術の発展にも役立っています。

 その一部をご紹介すると:

  • 茶と馬の交易で発展した「茶馬古道」は、もう一つのシルクロードとも言われ、中国南部の茶産地とチベットをつなぐ交易の道として発展しました。
  • オランダとイギリスの東インド会社はよって茶の貿易が発展します。イギリス東インド
    会社は、当時世界最大の企業に成長しました。
  • 茶の輸入が広まると、一刻も早く消費地へ運ぼうと競いう争が進み、イギリスでは造船技術、航海技術の進歩につながりました。
  • お茶を中国に頼っていたイギリスは、新たな茶産地を求め、インドには大規模な茶のプランテーションを開きます。その後、インド、セイロン(スリランカ)は新興茶産地となります。
  • 中国から輸入された茶器でお茶を飲んでいた欧米では、やがて独自の茶器の製造を始めます。ヨーロッパの陶磁器製造技術を高め、世界を魅了する文化へとつながります。
  • 明治時代の日本では、茶が絹などと並んで重要な輸出品とされ、輸出のための生産・出荷体制や港の開発が急速に進みます。


 茶産地では輸出用の生産体制、お茶の取引の拠点が作られ、お茶を運ぶための交易路が発展します。消費地では、お茶を楽しむための道具や文化が発展します。お茶を国策に取り入れ、特別な税金をかける国もありました。
 お茶に係わる様々な歴史上の出来事は、今の私たちの生活につながっています。

お茶の魅力が、世界の歴史を変えてしまったみたい。
ドラマティックね。

資料

『年表 茶の世界史 新装版』 松崎芳郎編著, 八坂書房, 2007年
『お茶の歴史』 ヴィクター・H・メア/アーリン・ホー共著, 忠平美幸訳, 河出書房出版, 2010年
『世界の歴史9・10・11』 社会思想社・教養文庫