神話・古文書に見るお茶 ~お茶の利用の始まり~
●医薬と農耕の神・神農炎帝が発見したお茶
お茶の原産地・中国には、お茶の発見が神話として伝えられています。
神話の主人公・神農(しんのう)は、紀元前2740年頃に活躍した皇帝。実在が確認されている王朝より前の時代で、三皇五帝(中国を形作った神や聖人)の一人に数えられています。
神農のエピソードは、紀元前に書かれた思想書『淮南子』(えなんじ)、歴史書『史記』、8世紀ごろのお茶の専門書『茶経』など、多くの古文書にみることができます。120歳まで生きたと言われる神農炎帝が山中にお茶を見つけ、その解毒作用を頼りにしていた、そんな伝説をご紹介します。
はるか5千年も昔の中国のことです。
長江中流の湖北省隋州に、後に神農炎帝と呼ばれる、一人の男子が産まれました。
この子の母・女登は、旅先で龍神の霊気に触れて妊娠したのでした。
男の子の成長は速く、生後三日で喋り、五日で歩き、七日で歯が生えました。
やがて、身長は八尺七寸(約2m60cm)となり、たくましく、探究心旺盛、思慮深く育ちました。
姜という部落の首領となった神農は、領民の生活、健康に心を砕きます。
狩猟、漁労が中心だった時代、穀物栽培のノウハウを編み出しました。
また、鍬、鋤の原型となる農機具を発明し、農耕による生活の安定を図りました。
これが「神農」の名の由来です。
また、油分の多い木を束ねてつくる松明を発明したとも言われます。
人々に明かりと熱をもたらし、火によって徳を得たことで
「炎帝」(えんてい)とも呼ばれるようになります。
日を定めて物資を交換することを始めて、市場や交易の原型も築きました。
これが商売の神様と言われるゆえんです。
当時の人々は、生水や生ものでおなかを壊し、
病気や怪我を負っても、治すすべを持たずに苦しんでいました。
そこで神農炎帝は自ら山に入り、目にした草木を端から調べ、
人のためになるものと有害なものを見分け、
薬になる物とその効能を人々に伝授しました。
神農炎帝の調べ方は独特です。
手にした赤い鞭で草木を砕き、自分で服用して試します。
驚くことに、神農の胴体は水晶のように透明で、外から内臓が見えました。
有害な草を食べると内臓が黒くなり、毒があることがすぐにわかります。
あるとき、一日で72もの毒にあたってひどく苦しみます。
その時そばにあった、白い花をつけ、さわやかな香りのする若葉を口にしたところ、
その葉は腹の中をくまなく移動し、体内の毒が消え、体調も回復しました。
その葉の様子は、まるで腸を検査するようだったので、
神農炎帝は、その葉を「調べる草」という意味を込めて「査」と呼びました。
それがいつの間にか「茶」に変化したと言われます。
それ以来、神農炎帝は、毒にあたっては茶で毒を消し、さらに薬草を集めていきました。
しかしある時、黄色い花を付けた小さな草を口にしたところ、腸がねじれるような激痛が走ります。
その時に限って茶を口にすることが間に合わず、猛毒によって腸がいくつにも分断され、命を落としてしまいました。
神農炎帝が調べた薬草は『神農本草』として伝承され、後漢から三国時代の頃にまとめられたのが、中国最古の薬物書と言われる『神農本草経』です。ここには、神農が選抜したとされる365種類の薬物が、種類(草木、鉱物等)、効能(命を養うもの、体力を養うもの、病気を治す薬効の強いもの)、味や性質などとともに紹介されています。神農本草経はその後も再編纂され、今日の中国医薬、漢方学へと発展しています。
農業、医薬、火、商売、易の神として、神農炎帝は現在も信仰されています。
湖南省の炎帝陵など、ゆかりの地は人気の観光スポットになっています。日本でも、東京の湯島聖堂、大阪の少彦名神社など、各地に祀られています。
神農炎帝の能力は、まさに超人的。そんな神様がお茶の解毒作用を頼りにしていたなんて、昔の人の思いを見るようね。
●中国の古文書にみる献上茶・茶の利用の始まり
神農が解毒剤としてお茶を愛用していたのは神話。もう少し現実的な、お茶と人々のかかわりを探すと、今から3千年ほど前に時代が飛びます。
○お茶を献上していた巴蜀国
古代中国で、夏、殷(いん、商とも言う)に続く3番目の王朝が周(しゅう)です。紀元前11世紀から紀元前8世紀にかけての西周時代は、現在の陝西省西安市(長安)を中心に栄えました。
その周辺で、現在の四川省あたりには、巴(は)と蜀(しょく、古蜀)という国がありました。紀元前3世紀頃まで栄えた両国は自然豊かで、今日の四川料理の発祥の地とも言われています。
4世紀に、古代中国からの歴史を編さんした『華陽国志』には、周時代のお茶に関して次のような記述があり、巴蜀国から周王朝には、この地で採れる産物が献上されたことがわかります。
「桑、蠶、麻、苧、魚、鹽、銅、鐵、丹、漆、茶、蜜、靈龜、巨犀、山雞、白雉、黃潤、鮮粉、皆納貢之。」(桑、蚕、麻・・茶・など、これらを皆貢ぐ)
桑、蚕、麻、漆、魚、塩、蜂蜜、銅、鉄、山鶏などとともに、お茶が王朝への献上品となっていました。また、巴国には良い香りの木が栽培されており、それがお茶だとしています。
後年、お茶の産地が増え、唐、宗、元、明、清と王朝も変わりますが、貢茶は受け継がれ、より盛大に行われました。
○お茶の市場ができていた漢時代
漢時代の紀元前59年に書かれた『僮約』も、当時のお茶の様子を知ることができる数少ない文献の一つです。
作者の王褒(おうほう)は四川省の文人で、学生時代に寄宿生活をしていました。
その時、身の回りの世話をする使用人がいましたが、反抗的な振る舞いだったため、使用人の仕事をリストアップして懲らしめる、というストーリの滑稽文が『僮約』です。「僮約」は本来、主人と奴隷との契約書という意味ですが、文人らしく滑稽に描いています。
王褒がリストアップした仕事の一部をみてみると:
「舎中有客 提壺行酤」 (家に来客があるので、壷を提げて酒を買いに行く。)
「築肉臛芋 鱠魚炰鰲」(肉をつき、芋を叩く。魚をなますにし、亀をあぶる。)
「烹荼盡具」 (荼を煮出し、器を並べておく。)
「武陽買荼」 (武陽に荼を買い出しに行く。)
「慎護奸偸」 (泥棒に警戒する。) …等々
茶に似た「荼」という文字は「た」と読みます。「荼」は苦い味の菜っ葉という意味を持ちますが、この頃、お茶を指す文字がなく、代わりに「荼」の字でお茶を表していたと考えられています。
「烹荼」からは、お茶がスープのように用いられていたと推測されます。「武陽買荼」の節からは、お茶が商品として取引されていたことがわかります。武陽は、『華陽国志』にも良質なお茶の産地として紹介されている四川省の地域です。
○お茶の使い方も多様になった三国時代
3世紀頃の三国時代になると、お茶について興味深い記録が登場します。
三国の一つ、魏で編さんされた辞書『廣雅』には、当時のお茶の用い方があらわされています。
「荊巴間 采葉作餅」
(荊(湖北省の荊)と巴(四川省重慶地方)の一帯では、葉を採って餅に作る。)
「葉老者 餅成以米膏出之」
(古い葉は、米を糊状にしたものを混ぜて餅にする。)
「欲煮茗飲、先炙令色赤、搗末置瓷器中、以湯澆覆之、用葱姜橘子芼之」
(茗を煮て飲もうとするには、まず赤色になるまで火で炙り、臼で挽いて粉にし、磁器の器に入れて熱湯を注ぐ。葱、生姜、みかんの皮を混ぜる。)
「其飲醒酒、令人不眠」
(それを飲むと、酒の酔いが醒め、目も覚める。)
ここで「葉」や「茗」の字があてられている部分が、茶を指しています。当時の湖北省から四川省にかけての地域では、茶葉を団子状にまとめて保管しておき、使う分をあぶり、粉にして、調味料を加えて飲んでいたことがわかります。
三国時代と言えば、三国志が有名です。
中国では、お茶を酒に見立てて飲んだり、客人を酒に代えてお茶でもてなしたりすることが、古くから行われていました。それを「以茶代酒」(茶を以て酒に代える)と言います。
中国の歴史絵巻として人気の高い『三国志』の呉書にも「以茶代酒」の一節があります。
呉の第4代で最後の君主・孫晧(そんこう)は、
首席で家臣に大酒を飲ませたり、意にそぐわない者をすぐに殺害するなど、
横暴な振る舞いで恐れられていました。
その一方で、博識の臣下は評価していました。
政治や儒学に通じていた韋昭(いしょう・韋曜)もその一人です。
ある時、酒に弱い韋昭が、孫晧の酒席に招かれた際、彼は密かに、酒の代わりにお茶を賜りました。 ー「或密賜茶以当酒」
これが「以茶代酒」の、もっとも初期の記録だと言われています。
古代中国で薬のように使われたお茶は、貢物、おもてなしの一品へと、その役割を広げていったのね。